2009年7月29日水曜日

余命2週の宣告は乳がんだった

彼女は福岡女学院高校から国際基督教大学の寮生として、4年間を東京で暮らした。当時の女学院には4年制がなかったのである。27年と1ヶ月の短すぎる人生において、この4年間だけが福岡を離れていた時期となる。洗礼も受けていたフランシスコ修道会の在家信者でもあり、日曜礼拝も欠かさなかった。この日は朝早くに家を出て、遠くの教会まで行き、取って返して、二日市温泉の老舗旅館で茶を教えていたのである。

この子の温厚さ、いつもは活気で色めきたつ。発するは純情を呼び寄せて引き連れる反応熱っぽいが、人前では私が心恥ずかしく、連れ立つてると感服するのにも忙しくなってしまい、共鳴器してた。
全身で幾つもの音叉を持ち合わせている師範。さすがの裏千家だったのです。
茶会の和服では、みっともないからと、大きな胸をサラシで締め上げていた。
ロザリオも見えないように気をつけていた。
優婉な涼やかさにて、娘気質な硬度。男の影によってでもブランド物に飾られるでもなく、自ら発光して尚且つ動じない恒星に、私は垣間見ていた。

毎週日曜の茶会にて、
「お弟子さんから、『この頃、綺麗になられて・・・』と言われる妹は凄く喜んでいます」
との姉の、“お分かり?‘’の意味を、
私は引きつらせてしまいます。

目鼻立ちが端正な色香へと張り切って嬉しそうな心月の眼差しは、ためらわない撫子の若葉の色に。
訪れ捨てて好し風って感じで、いたずらしたい。
これだけで、清み声で弾んだでしょう。赤み走ったでしょう。

いつものように師範の家で弾む会話の中、
なんてったって唇が、その艶々していた二片が尋常じゃないことに気がついた。
三月の頃だった。年末くらいから訳あって会えない日々が続いていた私たちでした。
虫の知らせだったのでしょうか。
若葉風へと在り在り。風模様に心をその方に向かわせる段落とすべきだった。
梅暦にて捲られる辛夷の大花が、花の知らせかのように折れ目を茶色に変えたのは何故?
顔色から易々と強請り取れたんですが・・・。

直ぐ、隣りに居た師範の義兄にあたる眼科医に尋ねたんですが、
「化粧しないからだ」とか「野点のせいだ」と、一笑に付されてしまいました。

この時、なぜ押し捲らなかったのか、私の責任です。
場で駄目だったんなら、医者なんて腐るほど人脈にしてんだから、いくらでも方法はあった。
福岡県医師会、福岡市医師会、久留米医師会、大牟田医師会。
あまり身近にあると・・・・・医者の不養生、という言葉もありますし。

しかし、問題は年末あたりから何故、会えなくなったのかってことなんだ。
このあとも、また会えない日々が続いた。
         
五月、GW明け八日の夜です。
約束通り、師範に会いに行った私は教えられたのです。

「真夜中、久留米大学病院に搬送した」と。

「病院へ行きます」
テーブルを思いっきり蹴飛ばしながら立ち上がった私は、

「慌てるなっ。面会時間は過ぎてるし、麻酔で寝ている。明日は朝から手術で、終わっても麻酔が効いて寝ている。結果は朝、医院の方に入るようになってるから、夜、自宅にくればいい。教えてやる」

その夜、聞かされた。

「乳がん。あと2週間の命。医者の判断だった。手遅れ。メスを入れただけで手の施しようがなく、そのまま縫合した。綺麗な胸だったらしい。一月でも早ければ。痛みはあったはずだ。妹には教えない。最期まで隠し通す。病室には面会謝絶の札が掛かっていて行っても会えない。俺が伝えておいてやる」


聖女クララに透明な師範に生まれ変わったあと、
遺品の整理をしておられた姉は見つける。

癌に関する新刊を・・・・・・・・・・





良い子ぶる面の造りに古のひ弱な裸ひまわりを看る
     
                        
                                 
          
           
                                  




                    

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